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2016年8月14日 (日)

これでいいのだ

長女に薦められて、平田オリザ氏の「下り坂をそろそろと下る」(講談社現代新書)をKindle版で読んでみました。以下、Your Highlightをコピペして、更にバサバサと抜粋したものです。脈絡無い抜き書きですが、大筋を見返すには多少は役にたつかもしれません。

地方創世という活動を軸に、経済成長の止まった、長く穏やかな衰退の時間をどう過ごしていくのかを、「文化」を切り口に考察しています。劇作家の視点は、いわゆる経済評論家やコンサルタントといった人たちの書き物とはかなり異なった色合いですが、人間の本質に迫っているという点では、より地に足のついた議論であり活動かもしれません。

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(抜粋の一部)

小豆島には大学はないから、いったん、高校卒業時点で、一定数の人口が島を離れていくのは仕方がな い。しかし、その人々が戻ってきてくれるか、あるいはよそからも人が来てくれるか、その大きな要因の一つが、「つまらないか」「おもしろいか」という広い 意味での文化資源に拠っていることは間違いない。

豊岡市の方針は、「東京標準では考えない。可能な限り世界標準で考える」というものだ。

豊岡でいいのだ  お酒の好きな中貝市長は酔うとよく「ここでいいのだ。豊岡でいいのだ」と口走る。いや、酔っていないときも口にすることはあるのだが、酒が入るとその頻 度が増す。  この「ここでいいのだ」は諦めのつぶやきではない。まさに『天才バカボン』のバカボンパパが「これでいいのだ」と力強く宣言するように、これは自己肯定 の宣言だ。

これまでの「まちづくり」「まちおこし」に決定的に欠けていたのは、この自己肯定感ではなかった か。雇用や住宅だけを確保しても、若者たちは戻ってこない。ましてIターンやJターンは望むべくもない。選んでもらえる町を作るには、自己肯定感を引き出 す、広い意味での文化政策とハイセンスなイメージ作りが必要だ。

「それなりのリベラルさ」や「センス」は、一朝一夕では生まれない。そのことに、いま気がついている自治体と、従来ながらの「まちおこし」に勤しんでいる自治体とでは、二〇年後、三〇年後に大きな差が出るだろう。

しかし、いまや、どんな情報も知識も、インターネットで簡単に手に入れることができる。そのこ とを大前提にしつつ、それでも「ここで、共に、学ぶ」ことが重要な時代になってきたのだ。もはや、学校の、少なくとも大学以上の高等教育機関の存在価値 は、新しい知識や情報を得る場所としてではなく、共に学び、議論し、共同作業を行うという点だけになった。

このような能力の総体を、社会学では「文化資本」と呼ぶ。平易な言葉に言い換えれば「人と共に生きるためのセンス」である。

理屈ではなく、いいもの、本物を見続けることによって、偽物を直感的に見分ける能力が育つ。

自然が感性を育む。それは正しいかもしれない。しかし、いま社会から求められているのは、そこで感じた自然の素晴らしさを、色や形や音や、あるいは言葉にして他者に伝える能力である。

しかし、もう一点、日本社会のことに限って言えば、成熟社会、低成長型の社会へと社会構造を変えていく中で、複数のポジションを横断的に担えるような人材が強く求められるようになるという部分が重要だ。

哲学者の鷲田清一氏は、このような「オロオロと」歩いて行くタイプのリーダーシップを、「しんがり のリーダーシップ」と呼んでいる。  これからの日本と日本社会は、下り坂を、心を引き締めながら下りていかなければならない。そのときに必要なのは、人をぐいぐいとひっぱっていくリーダー シップだけではなく、「けが人はいないか」「逃げ遅れたものはいないか」あるいは「忘れ物はないか」と見て回ってくれる、そのようなリーダーも求められる のではあるまい。

最近は、「リーダーシップだけではなく、フォロワーシップも必要だ」と言われるようになった。それ は、前章の大学入試改革の項で触れた「参謀の楽しみ」と言い換えてもいい。リーダーに必要な情報を伝える。厳しい諫言もする。そして、リーダーに万一のこ とがあれば、それに取って代わって指揮も執る。

この十数年、日本の教育界では「問題解決能力」ということが言われてきた。しかし、本当に重要なの は、この点、「問題発見能力」なのではあるまいか。

夕張山系を挟んだ富良野市には、そんな建物は一つもない。  富良野はいまや北海道最大の観光地として、季節を問わず賑わいを見せている。さらにその北側、お花畑でアジア各国から観光客を集める美瑛町は、景観を守るために高規格道路の延伸さえも拒否していると聞く。

私はこのような能力を、「文化の自己決定能力」と呼んでいる。

巨大資本は、もっと巧妙に、文化的に搾取を行っていく。「文化の自己決定能力」を持たずに、付加価値を自ら生み出せない地域は、簡単に東京資本(あるいはグローバル資本)に騙されてしまう。

ではその能力(センス)は、どのようにして育つのだろう。それは畢竟、小さな頃から、本物の文化芸 術に触れていくことからしか育たないと私は思う。もしそうだとするならば、東京の一人勝ち状態は、今後も半永久的に続くことになる。なぜなら首都圏の子ど もたちには、それだけの機会がふんだんに保証されているのだから。

このまま有効な文化政策をうたなければ、東京と、その他の地域の文化格差は、今後も広がる一方になるだろう。東京一極集中の最大の要因はこの点にある。

かつては、公共事業によって関連会社が儲かれば、その従業員たちが商店街で買い物をし、飲食をし て、街全体を潤すことができた。しかしいまは、郊外のショッピングセンターで買い物をし、ファミリーレストランで食事をとってしまったら、地域で金が一周 する前に、すべてが東京資本に吸い上げられてしまうことになる。

消費社会において重要なのは、「ソフトの地産地消」だ。自分たちで創り、自分たちで楽しみ、自分たちで消費する。そこに付加価値をつけると、他の地域の人びとをも楽しませることができる。  昨今のB級グルメの隆盛は、まさにこの典型だ。

第一次産業の高度化とは何か?

一〇〇〇円で、漁協を通じて東京向けに出荷することと、リスクをとりながらでも三〇〇〇円で地元で消費をすること。この二〇〇〇円の違いが「付加価値」である。付加価値とは何か。それはとりもなおさず、「人との違い」ということだろう。

そんなことはみんな分かっている。分かっているけれども、それができないのはなぜだろう。農協や漁協が悪いのか。私はそうではないと感じる。付加価値を生み出すだけの人材が、決定的に不足している。

この人材供給のシステムは、高校の学校教育レベルから始まっており、偏差値の序列に従って中央へ中央へと人材が吸い上げられる仕組みとなっている。

ここ数年の日韓のぎくしゃくとした関係は、このお互いに不慣れな状態を、両国の政府も国民も、まだ受け入れかねているところに起因すると私は考えている。

あれから十数年が経って、いま、状況はさらに悪化している。現在の韓国社会は、日本以上の激しい競争社会であり、いわば国家全体がブラック企業化している。成功者であっても一瞬たりとも気の抜けない、文字通り「息苦しい」社会になってしまった。

いまの日韓のぎくしゃくとした関係は、下り坂を危なっかしく下りている日本と、これから下りなけれ ばならない下り坂の急勾配に足がすくんでいる韓国の、そのどちらもが抱える同根の問題を、どちらも無いことのように振る舞って強がりながら、国を賭けての チキンレースをしているようにしか見えない。  そしてその傍らには、青息吐息になりながらも、猛スピードで急坂を登っていく中国という巨人がいる。問題は一筋縄では解けないだろう。

世界一安全な日本の新幹線が、安全設計上の問題で売れないというのは不思議に思われるかもしれないが、これもまた事実である。

一方で、欧米の高速鉄道は、おそらく事故が起きた際に最悪の事態を避けるように、あるいは被害が最小限で食い止められるように設計がなされている。

欧米のライバル企業は、高速鉄道の売り込みに当たって、当然、ここのところを突いてくるだろ う。 「だって、原発は事故を起こしたじゃないですか」  いや、原発事故を引き合いに出すまでもなく、JR西日本は、二〇〇五年の福知山線脱線事故で一〇七名の死者を出している。

しかし逆の見方をすれば、日本は(あるいはドイツも)、ときとして、文明を輸出できる大国であると錯覚をしてしまう、それほどの高い技術を持っているのだろう。

もう一点、日本の「絶対負けない」という不敗神話は、おそらく、戦争に負けた経験がとても少ないという事実によっている。

軍事強国であるドイツを隣国とするフランスなどはその最たるもので、この国は、およそ戦争には弱い のだが、負けてからが強いという特殊性を持っている。オランダの狡猾さ、スイスの堅守、ベルギーの柔軟性、いずれにしても、それは周りの強国とどのように 付き合っていくかを、多くの血を流しながら学んだ結果の知恵だろう。

東アジアの状況は欧州よりも複雑だが、それでもやはり、中国を孤立させず、日韓が下り坂を確かな足 取りで下り、北朝鮮の体制の崩壊を待ち(あるいはそれを促し)、その受け皿をしっかりと作っていく。日本が日本固有の文化を守り、アメリカの属国になら ず、中国の植民地にもならない道は、おそらくここにしかないと私は思う。

一つは、日本が文明を輸出できる国だという錯覚。「日本を、再び、世界の中心で輝く国としていく」(二〇一五年年頭所感)という妄想は、これを端的に表している。

もう一つの誤謬は、「絶対負けない」という不敗神話だ。

日本国の通弊というのは、為政者が手の内──とくに弱点──を国民に明かす修辞というか、さらにいえば勇気に乏しいことですね。

この人々に共通するのは、その生きた時代にあっては、いささか奇人と見られながら、実は一種科学的な、あるいは経済的なリアリズムを持っていたという点だろう。

おそらく、いまの日本と日本人にとって、もっとも大事なことは、「卑屈なほどのリアリズム」をもって現実を認識し、ここから長く続く後退戦を「勝てないまでも負けない」ようにもっていくことだろう。

今回の地方創生の最大の課題は、人口減少対策である。

出産、育児といった人類にとって神聖な事柄は、経済合理性だけでは決まっていかないからだ。政府がどれほど未来での問題解決を謳ったところで、人々は、将来に不安のある環境では子どもを産まないし育てない。

偶然の出会いがない  地方の抱える問題は非婚化・晩婚化であり、「偶然の出会いがない」という点は序章でも触れた。偶然の出会いの場をことごとくつぶしておいて、人口減少をなげくのはナンセンスだ。

要するに、若者たちを地方に回帰させ、そこに「偶然の出会い」を創出していくしか、人口減少問題を根本的に解決する方策はないのだ。

「ネジを九〇度曲げなさい」と言われても、「六〇度を試してみよう」という発想や勇気、「一八〇度曲げてみました、なぜなら……」と説明できるコミュニケーション能力や表現力の方が、より強く求められる時代が来る。

序章で私は、「失業者が平日の昼間に劇場や映画館に来てくれたら、ありがとうと言える社会を 作るべきだ」と書いた。それは何も情緒的な話をしているのではない。一つには文化を通じた社会包摂によって、人間が孤立化することを防ぎ、最終的に社会全 体が負うリスクとコストを低減すること。

少しずつでもセンスを磨き、次には人を楽しませることの喜びを感じ、その上で自分に合いそうな職業を見つけて、そのための技術を習得する

いま、日本社会全体が、「自分以外の誰かがうまい汁を吸っている」と疑心暗鬼になり、妬みや嫉みが蔓延する息苦しい社会になっている。

この猜疑心にあふれる社会を、寛容と信頼によって再び編み替えない限り日本の未来はない。

競争と排除の論理から抜け出し、寛容と包摂の社会へ。道のりは長く厳しいが、私はこれ以外に、この下り坂を、ゆっくりと下っていく方法はないと思う

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